シャンソン演習 2026年度- 2021-25年度 2016-20年度 2010-15年度
2010年度
離任・着任
2010年3月末をもって、東京大学グローバルCOE「共生のための国際哲学教育研究センター(UTCP)」での特任講師の仕事を終えました。UTCPでは小林康夫・拠点リーダーのもとで数多くのことを学びました。UTCPという日本におけるもっとも活気ある先鋭的な人文学の研究拠点を離れることは、実はとても心残りなことでもあります。
4月1日、首都大学東京・都市教養学部(フランス文化圏コース)の准教授に任命されました。新天地での研究教育活動に心と力を尽くします。
首都大学東京の前身、東京都立大学の仏文専攻は、20世紀フランス思想の研究教育活動において大きな役割を果たしてきました。デリダ『グラマトロジーについて』やドゥルーズ『ニーチェと哲学』の訳業で知られる足立和浩氏やクリステヴァ研究の西川直子氏、レヴィナス研究の合田正人氏、反ユダヤ主義研究の菅野賢治氏らが教鞭をとられていました。またここは、バタイユ研究の西谷修氏、レヴィナス研究の内田樹氏、ブランショ研究の谷口博史氏らを輩出した研究科でもあります。数年前に都知事によるカイカクの騒乱があってから、仏文科の教員・学生数は激減し(教員数12人→3人)、20世紀フランスを担当する教員は不在となっていました。伝統ある貴重なポストゆえに責任感は重いと言わざるをえませんが、自分なりに心と力を尽くします。
(前期)ジャック・デリダ入門(水曜5限・フランス語圏文化論A)
ジャック・デリダは脱構築の思想家として知られているが、彼の仕事は哲学のみならず、文学、政治、言語、倫理、教育、芸術、精神分析など多岐にわたるものだった。デリダの思想がいかなる意義をもつのかは、20世紀の思想の風景を眺望するための重要な問いであり続けるだろう。本講義では、まず脱構築をめぐる入門的な解説から出発して、言語や文学、倫理、教育、政治といった今日的な主題をテクストに即して具体的に検討する。毎週、異なるテクストをとりあげて、参加者による発表形式で演習が進められる。
5/26 南唯利(東京外国語大)『たった一つの、私のものではない言葉』、IおよびVIII、岩波書店、1-11および113-132頁。
6/2 奥山浩通『パピエマシン(下)』、「歓待の原則」、ちくま学芸文庫、153-162頁。
【参考文献】『歓待について』、産業図書。
6/9 平山雄太(首都大)『声と現象』、「序論」、ちくま学芸文庫、7-35頁。
6/16 八木悠允(首都大)『留まれ、アテネ』、みすず書房、1-12および86-98頁。
【参考文献】ロラン・バルト『明るい部屋』、みすず書房。
6/23 大江倫子『アポリア』、「II 到来を待-期する」の前半部分、人文書院、91-124頁。
6/30 公開セミナー「『条件なき大学』(月曜社)」
大宮理紗子、守屋亮一(早稲田大学生)、伊藤拓也
7/7 櫻田和秀(首都大)『友愛のポリティックス』、みすず書房。
7/14 島田健司(首都大)『他の岬』、みすず書房。
初学期の演習を終えて
首都大学東京にて開催されている2010年度前期水曜5限の演習「フランス語圏文化論――ジャック・デリダ入門」が終了した。首都大に赴任して最初の演習だったが、参加者の方々の熱意と努力によって大変満足のいく成果を得ることができた。
冒頭で入門的講義を数回おこなった後、『たった一つの、私のものではない言葉』、『歓待について』、『声と現象』、『留まれ、アテネ』、『アポリア』、『条件なき大学』、『友愛のポリティックス』、『他の岬』と学生発表をもうけた。各著作をすべて通読するのは大変だろうから、重要個所30-40頁程度を毎週指定し、参加者にさほど負担をかけないようにした。一冊の著作をじっくり精読する醍醐味は失われたかもしれないが、しかし、毎週異なるテクストをテンポ良く読んでいくスリリングさを味わうことができた。
学部生相手にデリダの演習など成立するのだろうか。デリダのテクストには独特の難しさがある。デリダは基本的に誰かの思想やテクストに即して脱構築を実践するため(寄生虫的身振り)、彼自身の哲学体系を抽出することは難しい(デリダ哲学の現前不可能性)。それゆえ、演習でもデリダが扱っているテクストや哲学史などに遡って理解を深めておく必要が生じる。哲学の歴史的背景も同時に理解しておかなければならず、学部生には骨の折れる演習だったことだろう。
参加者は学内生と学外参加者が半々で、つねに計12名ほどだった。学外から学生や社会人が(わざわざ南大沢まで)足を運んでくれるのは大変嬉しいことだが、学内生とのバランスが当初から気がかりだった。意識の高い学外参加者によって演習の水準が極端に引き上げられないかどうか。学外者は休まずに定期的に参加してくれるかどうか。結果的に、双方のバランスは上手くいき、演習全体に活気が出た。とりわけ、公開イベント「『条件なき大学』を読む」の際にはさらにいろいろな学外参加者が集い、刺激的な会となった。
授業の最後にアンケート・シートを書いてもらい、感想を徴集することがある。しかし、個人的にこのやり方には不満だ。学生のさまざまな感想はきわめて興味深く、内容豊かであるのに、回収した感想が学生には還元されないからである。また、理解したばかりの内容に対して授業の最後の数分で感想を求めることには少し無理がある。そこで演習では感想を後日ツイッターで数回つぶやくか、メールで送ってもらうことにした。すべての感想は集約して、次週印刷して参加者に配布したが、こうした意見の循環はとても重要である。
就任してまだ4カ月だが、大変充実した演習を実施することができた。参加された方には感謝と敬意を表したい。今後もこのデリダ・ゼミは継続していきたいと考えている。(2010/7/22)
(後期)サルトル『文学とは何か』を読む(火曜2限・フランス語圏文学演習)
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ジャン=ポール・サルトルが著わした20世紀の代表的文学論『文学とは何か』(1948年)を通読しつつ、今日の「文学=書くという公的表現行為一般」の可能性を探る。「文学」の概括的な理解にとどまらず、作家論、読者論、表象文化論、文体論、ジャンル論、記号論、意味論といった文学をめぐる各論、そしてサルトルの実存主義哲学とその思想的背景にも踏み込んで知識を深める。考察の指針となるのは、まさにサルトルが『文学とは何か』の各章の表題として掲げた明快な問いである―「書くとはどういうことか?」、「なぜ書くのか?」、「誰のために書くのか?」
【使用テクスト】ジャン=ポール・サルトル『文学とは何か』改訳新装版1998年。
10/5 ガイダンス 10/12 サルトルとは誰か?
1)「書くとはどういうことか?」 10/19(15-26頁 上別府) 10/26(26-40頁 西山)
2)「なぜ書くのか?」 11/9(48-60頁 植松) 11/16(60-73頁 近藤)
11/30 中間まとめ
3)「誰のために書くのか?」12/7(75-92頁 小澤)
12/14(92-111頁 川野) 12/21(111-139頁 一戸)1/11(139-152頁 坂元)
1/18 サルトルの知識人論を参照予定 1/25 まとめ
(後期)デリダのバタイユ=ヘーゲル論通読(水曜5限・フランス語圏文化論B)

『エクリチュールと差異』に収録されたジョルジュ・バタイユ論「限定的エコノミーから一般的エコノミーへ 留保なきヘーゲル主義」を通読することで、デリダの脱構築思想のエッセンスを紹介する。デリダは、止揚、否定性、至高性、労働といった概念や、「主人と奴隷の弁証法」や「絶対知」といったヘーゲルの問題系を議論の俎上に載せる。デリダとヘーゲルとの関係、つまり、脱構築と弁証法の関係、差延と止揚の関係を考える上での重要テクスト。
【使用テクスト】ジャック・デリダ「限定的エコノミーから一般的エコノミーへ 留保なきヘーゲル主義」、『エクリチュールと差異(下)』(法政大学出版局、1983年)
10/6 ガイダンス
10/13 ヘーゲルとは誰か? 発表:平山雄太
10/20 バタイユとは誰か? 発表:八木悠允
10/27「限定的エコノミーから一般的エコノミーへ」(157-162頁 櫻田)
11/10(162-169頁 川野)
11/17 映画「哲学への権利」上映・討論会
11/24「主人と奴隷の弁証法」について 発表:木本
12/1(170-180頁 横手)
12/8(180-195頁 奥山)
12/15 公開セミナー「笑い」とは何か?
12/22(195-202頁 大江)
1/12(202-208頁 平山)
1/19 予備 1/26 まとめ
2011年度
(前期)レヴィナス『倫理と無限』を読む(水曜5限・フランス語圏文化論A)

現象学や存在論に依拠しつつ、西洋哲学が見落としてきた他者の倫理学を根本的な仕方で探究したユダヤ人思想家エマニュエル・レヴィナス。レヴィナスは、知の体系や論理的秩序によって倫理を基礎づけ、倫理の学を洗練させるのではなく、西洋のモノローグ的な思考に抗して倫理の根源を問い続けた。難解にみえるレヴィナス思想だが、ラジオ対談『倫理と無限』は平易な語り口で彼の経歴や著作、重要概念が簡潔に解説されており、入門的テクストとして定評がある。『倫理と無限』(西山雄二訳、ちくま学芸文庫、2010年)を通読することでレヴィナス思想の今日的意義を考える。
4/13 ガイダンス
4/20「レヴィナスとは誰か?」発表:平山雄太
4/27 第一章 西山
5/11 「世界」(岩波書店)2011年5月号「東日本大震災・原発災害 特別編集」を読む
5/18 第二章 新田 5/25 第三章 川野
6/1 発表「オルフェウスについて」久津間靖英
6/8 第四章 横田 6/15 第五章 小玉
6/22 第六章 仙石+第七章 大木
6/29 第八章 水上+第九章 井上 7/6 第十章 山下
7/13 公開セミナー「レヴィナス『倫理と無限』を読む」 馬場智一(東京外国語大学非常勤講師)
7/20 まとめ
【演習を終えて】
レヴィナス『倫理と無限』の通読演習が終了した。自分の訳書だし、入門書なので容易いだろうと思っていたが、やはりレヴィナスは手強かった。「ある」「光」「糧」「エロス」「顔」「秘密」「責任」など、何気ない言葉をその哲学の核心に据えているけれども、あるいはそのためにこそ、構築された彼の知的世界は奥深い。現象学の手法に即して、「私」がいかに数多くの他なるものと関わり、貫かれ、その力と言葉を加えられて生きているのかが、根本的な仕方で解き解されていくのだ。
今回は後半、受講生の方にレヴィナス・アレルギーが発症してきたことに満足した。「無限者の栄光の証し」など、宗教的な表現が登場し、「結局、レヴィナスの倫理学は宗教思想に裏打ちされているものでしかない」という拒絶感が湧き上がる。ただ、それはレヴィナスを理解し始めた証拠。私自身最初はそう思った。倫理を学として構築するのではなく、実存するこの私を起点として倫理の意味を考えると、なぜこうした宗教的な構造を帯びてしまうのか。超越的な他者との関わりが問題となってくるのか。このアレルギーはさらに思考を駆動させる。そして、その原因であるレヴィナスの思考がいかに力強くてラディカルなものであるかを思い知らされる。
東日本大震災があった。震災、津波、原発という三重のカタストロフィがあり、現在進行中だ。とりわけ、五千もの行方不明者に日本列島が見つめられているとふとした瞬間に思い、異例の事態だと痛感する。にもかかわらず、ナショナルな目線で被災地復興が叫ばれ(「頑張れ日本」)、原発再開の無遠慮な言葉も聞こえ、さらに異常な事態だなと怖れおののく。進行中のカタストロフィの最中でとり組んだ、今回の演習は実に濃密だった。毎回丁寧に準備していただいた発表者と参加者の皆さんのおかげで、「倫理と無限」がより重要な主題となった。避難した子供がうつろな調子でつぶやく、「早くお家に帰りたい」――その小さな言葉にいまはまだ十分に応答できない、だから、これからももっともっと勉強したい。
(前期)「岩波新書を読む」(月曜5限・基礎ゼミナール)

基礎ゼミナールは全学の一年生向けの必修演習です。今年度は下記の予定で、毎週、岩波新書の発表を継続していきます。
健全な市民的教養の育成のために創刊された岩波新書は、新書の代表格としてその確かな内容に定評があります。その対象ジャンルは文系理系を問わず、学問的なものからジャーナリスティックなものまで多岐に及び、第一線の学者や作家が筆をとっています。本ゼミナールでは、各人が自分の関心に即して、岩波新書を一冊とり上げて、発表します。さまざまな主題に触れることで知見を広げ、議論を通じて主体的に思考する能力を養うことで、大学生活への第一歩を固めます。
〈日程〉ジャンル、発表テクスト、発表者を記載
4/18 授業の進め方の説明
4/25 【経済】橘木俊詔『格差社会』(西山)
5/9 【教育】斉藤孝『教育力』(桝井)/【言語】鈴木孝夫『日本語と外国語』(吉田)/
5/16 【社会】香山リカ『「悩み」の正体』『若者の法則』(平野×林)
5/23 【法】岡本薫『著作権の考え方』(金城)/【現代世界】酒井啓子『イラクは食べる』(福田)
5/30 【現代世界】藤原帰一『デモクラシーの帝国』(落合)/【芸術】烏賀陽弘道『Jポップとは何か』(橋本)
6/6 【社会】内田隆三『ベースボールの夢』(松下)/【社会】大澤真幸『不可能性の時代』(明田川)
6/13 【自然科学】高木仁三郎『原発事故はなぜくりかえすのか』(堀)
6/20 【社会】佐々木芳隆『海を渡る自衛隊』(伊藤)/湯浅誠『反貧困』(倉科)
6/27 【哲学】大庭健『善と悪』(佐藤彰)/【哲学】木田元『ハイデガーの思想』(松本)
7/4 【情報】西垣通『ウェブ社会をどう生きるか』(今井)/【自然科学】竹内啓『偶然とは何か』(佐藤)
7/11 【宗教】大貫隆『聖書の読み方』(森下)/【経済】神野直彦「分かち合いの経済学」(杉山)
7/18 祝日 7/25 まとめ
(前・後期)ジャック・デリダ『獣と主権者』を読む(水4限・大学院演習)
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本演習では、2008年11月に刊行が開始されたデリダのセミネール・シリーズ(約14000頁、全43巻)の第1巻目『獣と主権者』をフランス語原書と英訳を用いて精読する。本書では、主権の概念とその諸形象の政治的かつ存在-神学的な歴史が、人間の固有性に対する動物の規定性という概括的な問いと交差されつつ探究される。動物の問いは、まず、動物的な生はいかにしてさまざまな領域(狩猟、家畜化、飼育、動物園、動物実験など)で扱われるのか、という生き物に関する政治的思考、生物学的なものや動物学的なものをめぐる政治性の問いとして分析される。またさらに、「人間が政治的動物である」という伝統的な定式にしたがうならば、獣を政治的主権性へと従属させる政治的な過程はいかにして組織されるのだろうか。また、獣と主権者は法や権利の空間に対して外在的かつ例外的な場を占めるがゆえに、法の起源と根源となりえるのだが、だとすると、両者の類比関係はいかなる過剰さを指し示しているのだろうか。本演習では、獣と主権者の古典的な対立を脱構築的に読み替えることで、政治的な主権の伝統的な規定を問い直すデリダ晩年のセミネールを読み進める。
〈使用テクスト〉
Jacques Derrida, Séminaire La bête et le souverain Volume I (2001-2002), Galilée, 2008.
(英訳)The Beast and the Sovereign, Volume I, University Of Chicago Press, 2009.
集中講義 「サルトル『文学とは何か?』を読む」
8月8日(月)-12日(金)2,3,4時限 名古屋市立大学
(11日は『哲学への権利』上映・討論会に振替)
ジャン=ポール・サルトルが著わした20世紀の代表的文学論『文学とは何か』(1948年)を通読しつつ、今日の「文学=書くという公的表現行為一般」の可能性を探る。「文学」の概括的な理解にとどまらず、作家論、読者論、表象文化論、文体論、ジャンル論、記号論、意味論といった文学をめぐる各論、そしてサルトルの実存主義哲学とその思想的背景にも踏み込んで知識を深める。考察の指針となるのは、まさにサルトルが『文学とは何か』の各章の表題として掲げた明快な問いである―「書くとはどういうことか?」、「なぜ書くのか?」、「誰のために書くのか?」
【集中講義を終えて】
今回ははじめての集中講義だったので、どうなることかと心配だった。15時間の講義を1日3コマずつ5日間で実施する長丁場。いわば真夏の合宿状態だが、参加者の方々がへばって飽きないように、視覚的資料を多用し、議論の時間をもうけて講義の流れにメリハリをつけた。終了後のレポート課題は「帳尻合わせ」の無難な作文になりがちなので、毎日のコメント・シートのみを成績評価の基準とした。全員参加のワークショップ的な雰囲気を重視し、比較的テンポよく、気持ちよく話すことができた。名古屋市立大学には哲学やフランス文学の専攻がない。そんな状況でのサルトル『文学とは何か』の講義なので、適切な説明の仕方、レジュメの効果的な使用、ぜひ伝えたいキーワードの強調など、サルトルを知らない学生にも何かが印象に残るように配慮した。学生の学力の高さと熱心さに助けられた。名古屋市大では社会人編入の方が多く、留学生の方も含めて、多様性のある教室は魅力的だった。5日間はあっという間で、せっかく学生たちと仲良くなったのに、もう、さよなら。「またぜひ講義をしてほしい」と何人もに声をかけていただいたのは嬉しかった。
(後期)都市教養科目「フランス文学」(火曜2限)

10/4 導入 10/11 表象とその限界
10/18 マルセル・プルーストの批評―作家の「別の自我」
10/25 シュルレアリスムの思想―無意識の芸術的創造性
11/8 受容理論―読者の自由の方へ、そして、その彼方へ
11/15 受容理論(続)―生の記述
11/29 ジャン=ポール・サルトル―実存主義の射程
12/6 アルベール・カミュ―不条理の方へ
12/13 ジョルジュ・バタイユ―死と共同性
12/20 「私」から始まる革命―68年5月革命から脱原発デモまで 12/27 復習
1/10 愛と死:見ることの禁止―オルフェウスの眼差し 1/17 全体討論
【講義を終えて】
都市教養プログラム「フランス文学」は昨年は受講生23名だったので、小教室が確保されていた。初回時に教室に行くと、廊下一杯に学生がいて教室にたどり着けない。他の講義だと思っていたところ、自分の講義への参加者だと知って驚愕。大至急、階段大教室に移動して講義が始まった。500名にも人数が膨れ上がった理由は、試験・レポートを課していないことと同じ時間帯に人気科目がないことだった。理系の学生も多数参加していたので、趣向を変えて、大人数でも参加意識をもてるような試みを仕掛けた。
「表象と作品」「実存と共同性」をそれぞれ全4回のシリーズとして、中期的な時間の流れを入れた。また、68年5月革命の回は、脱原発デモという時事的主題と連関させて、参加学生の政治的な意識を直接問うてみた。講義開始前に、その日の講義内容に「間接的に」関連する作品を前座として放映したことは刺激的だった。講義そのものを参加者との共同によってワーク・イン・プログレス的に創作し続けたと言える。
また、「大学の講義とは何か」というメタ的問いを学生に対して適宜投げかけた。私語の禁止、著しい遅刻の禁止、コメント・シートの意義、着席場所による学習効果、大教室の非人間的な空間性など、大学制度への自覚をうながした。最終回は、そうした実践の一環として教務職員6名に出席してもらい、学生らとの全体討論の会とした。学生の熱心な参加のおかげで、これまでになく成功した名残惜しい講義となった。
(後期)ジャック・デリダ『死を与える』(水曜5限・フランス語圏文化論B)

ジャック・デリダは宗教論『死を与える』(1990年)において、責任、秘密、贈与、犠牲、死、赦し、父子関係といった主題を相互に連関させながら論じている。参照されるのは『旧約聖書』における謎めいた供犠のエピソードだ。神はアブラハムに対して最愛の一人息子イサクを犠牲に捧げよと命じる。モリヤ山で息子の死を神に与える瞬間、アブラハムの手は押しとどめられる。死を与える瞬間に到来したこの出来事は、アブラハムのいかなる責任を物語るのだろうか。『死を与える』を通読しながら、デリダ哲学を理解しつつ、責任、秘密、贈与、犠牲、死、赦しといった概念群への理解を深める。
〈使用テクスト〉ジャック・デリダ『死を与える』ちくま学芸文庫、2004年。
10/5 ガイダンス 10/12 第一章(10-47頁)西山
10/19 第一章(48-74)八木 10/26 第二章(75-94)仙石
11/9 第二章(94-111)金谷
11/16 キルケゴール『おそれとおののき』(著作集第五巻)久津間
11/30 第三章(112-140)水上・大貫 12/7 第三章(140-168)川野
12/14 マルセル・モース『贈与論』(ちくま学芸文庫)を読む 島田・小林
12/21 第四章(169-191)大江 12/28 第四章(191-215)井上
1/11 第四章(215-236)小玉 1/18 モース『供犠論』山下・聡倉
1/25 伊藤 幹治『贈答の日本文化』平山・田中・小島
【演習を終えて】
今年度もデリダの演習が読了した。こんな難解な文章を非哲学系の学生20名で読めるのかと不安だったが、受講生は根気強く付き合ってくれた。毎回のレジュメも濃密で、コメント文章も秀逸。無神論でも有神論でもない神の二重化において責任の問いを立てることの微妙さは伝わったと思う。デリダ読解とは別に、贈与や犠牲、責任に関して理解を深める回も適宜設けた。
2012年度
(前期・後期)カタストロフィの思想(水曜5限・フランス語圏文化論A・B)

2011年、日本社会は震災・津波・原発という、人類史上初の三重のカタストロフィ(破局)を経験しました。甚大な数の行方不明者、被災者の困難な生活再建、無情にも故郷を追われた原発避難民、目に見えない放射能の不安……この自然災害かつ人為的災厄は、現在もなお進行中と言えるでしょう。カタストロフィ(catastrophe)はギリシア語源では「転覆」を含意しますが、日本社会は「3・11」によってまさに転覆し、大きな転換期を迎えています。本演習では、日本が直面しているカタストロフィを直接扱った文献ではなく、過去の人文・社会科学の文献や作品を敢えて参照します。これまで人間はいかにカタストロフィを表象し、解釈してきたのでしょうか。科学技術はカタストロフィにいかに対抗しうるのでしょうか。カタストロフィに見舞われた無垢な被災者たちの苦痛をどう受けとめればいいのでしょうか。人文・社会科学の文献を網羅してカタストロフィと人間の関係を根本的に問うことで、私たち自身の救済や希望の方途を探ります。
以下の5つの論点に即して、さまざまな文献・作品を発表形式で順次議論していきます。参加者が希望するカタストロフィに関する文献があれば、担当教員と相談の上、その文献で発表することもできます。
1)カタストロフィの表象
自然災害、疫病、放射能汚染、大虐殺といった破局的出来事はいかに表象されてきたのか。作家たちは破局の表象にいかなる思想を込めたのか。
アルベール・カミュ『ペスト』(小説) ハインリッヒ・V・クライスト『チリの地震』(小説)
本多猪四郎『ゴジラ』(映画) クロード・ランズマン『ショアー』(映画)
ダニエル・リベスキンド「ベルリン・ユダヤ博物館」「フリーダム・タワー」(建築)
レオナルド・ダ・ヴィンチ「大洪水」(素描)
2)カタストロフィの解釈
自然災害はたんなる天災だろうか、それともつねにある意味で人災だろうか。その物理的な原因や因果関係が解明される一方で、自然災害が人間への宿命や天罰として解釈されるのはなぜだろうか。
ヴォルテール『リスボンの災厄に関する詩編』 ルソー「ヴォルテール氏への手紙」
カント『判断力批判』 ジャン=ピエール・デュピュイ『ツナミの形而上学』 清水幾太郎『流言蜚語』
スザンナ・M・ホフマン、A・オリヴァー=スミス編著『災害の人類学――カタストロフィと文化』
3)カタストロフィの傷跡
無垢な人間たちがなぜ、突然の破局的出来事によって無慈悲な苦痛を与えられるのだろうか。死者に対する喪の作業、生存者の喪失感や罪意識といった他者の苦しみを第三者はいかに受けとめればいいのか。
『旧約聖書 ヨブ記』 フロイト『喪とメランコリー』 スーザン・ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』
ジャック・デリダ『雄羊』 ビヴァリー・ラファエル『災害の襲うとき――カタストロフィの精神医学』
アーサー・クラインマン『他者の苦しみへの責任』 小田実『被災の思想 難死の思想』
4)カタストロフィと科学技術
人間が自然の諸現象を予知し管理するために科学技術は不可欠だが、その本質とは何か。科学技術は想定外の偶然的な事故をも計算に入れることはできるのか。
ハイデガー『技術への問い』 竹内啓『偶然とは何か』
村上陽一郎『人間にとって科学とは何か』
5)カタストロフィからの救済
破局的な出来事をくり返さないために、私たちはいかなる責任を負い、いかなる社会的諸制度によって、いかにリスクを避け、いかに破局を記憶し、いかなる救済と約束を紡ぎだすことができるのか。
ウルリッヒ・ベック『世界リスク社会論』 ハンス・ヨナス『責任という原理』
ポール・ヴィリリオ『アクシデント――事故と文明』
ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』 ヴァルター・ベンヤミン『歴史哲学テーゼ』
(前期)「人間・文化・社会」(月曜4限)
総合テーマ「愛」
愛を知らない人間はひとりもいない。明らかに愛は誰もが経験する人間共通の感情的な現象である。しかし同時に、逆説的なことに、愛の体験は各々の言語のように絶対的に特殊なものであって、他人と同じ経験を共有することがほとんど不可能なようにもみえる。個々人が別々の仕方で経験する愛に対して、いかなる普遍的な規定を与えることができるのだろうか。愛は各々の文化において、穏和な人間関係として(友愛、仁愛、博愛…)、私的な愛情(恋愛、片恋、悲恋、同性愛…)として、家族的な関係(家族愛、兄弟愛、母性愛、父性愛…)として、社会的制度(婚約、結婚、離婚…)として、共同体の紐帯(愛国心、愛郷、愛校、愛社…)として多様な形で現われる。「愛」のさまざまな問題系をめぐって、人文社会系の各分野の教員が順番に、オムニバス形式で講義をおこなう。総合司会・西山雄二(フランス語圏文化論)
4/9第1回 「愛と憎しみの起源――母子関係から考える」永井撤(心理学)
4/16第2回「「パリスはヘレナを愛する」をどう分析するか――関係の論理と形而上学入門」岡本賢吾(哲学)
4/23第3回「アメリカ文化・文学における愛と人種」辻秀雄(英語圏文化論)
5/7第4回「「君は僕のもの、僕は君のもの」――ドイツ中世文芸にみる様々な愛のかたち」山本潤(ドイツ語圏文化論)
5/14第5回「北京のドラマから見る幸福のかたち」落合守和(中国文化論)
5/21第6回「植物への愛は可能なのか」猪股ときわ(日本文化論)
5/28第7回「在日外国人からのまなざし」西郡仁朗(日本語教育学)
6/4第8回「なぜ昔から人は「国」を愛そうとするのか?」源川真希(歴史・考古学)
6/11第9回「いじめと友情――思春期の仲間関係を考える」乾彰夫(教育学)
6/18第10回「ジェンダー概念の数奇な遍歴――インターセックスとの関わりを焦点に」左古輝人(社会学)
6/25第11回「社会福祉の現場から」長沼葉月(社会福祉学)
7/2第12回「悪魔に愛された人を取り戻す愛の儀礼」高桑史子(社会人類学)
7/9最終回「詩と映画の現在、愛はどう表現されているか」福間健二(表象言語論)
(前期)「フランス語圏文学史A」(月曜5限)
20世紀のフランス文学をめぐる代表的な批評と思想をオムニバス形式で通観することで、その理解を深める。批評と思想の潮流に焦点をあてることで、20世紀フランスの文学・思想的輪郭を理解し、変容する人間の可能性を考察する。
第1回 導入 第2回 表象とは何か?
第3回 マルセル・プルーストの批評―作家の「別の自我」
第4回 シュルレアリスムの思想―無意識の芸術的創造性
第5回 読者とは誰か?―読者反応論の可能性と限界
第6-7回 ジャン=ポール・サルトルの思想と批評―実存主義の射程
第8回 アルベール・カミュの思想―不条理と反抗の彼方のヒューマニズム
第9回 ジョルジュ・バタイユの思想―文学と共同性
第10-11回 68年5月革命―「私」から始まる革命
第12回 ロベール・アンテルムの思想―強制収容所の後に残された人間性
第13回 ロラン・バルトの批評―テクストの誘惑
第14回 ミシェル・フーコーの思想―新たな人間像の告知 第15回 まとめ
(前期)ジャック・デリダ『獣と主権者』を読む(水4限・大学院演習)
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本演習では、2008年11月に刊行が開始されたデリダのセミネール・シリーズ(約14000頁、全43巻)の第1巻目『獣と主権者』をフランス語原書と英訳を用いて精読する。本書では、主権の概念とその諸形象の政治的かつ存在-神学的な歴史が、人間の固有性に対する動物の規定性という概括的な問いと交差されつつ探究される。動物の問いは、まず、動物的な生はいかにしてさまざまな領域(狩猟、家畜化、飼育、動物園、動物実験など)で扱われるのか、という生き物に関する政治的思考、生物学的なものや動物学的なものをめぐる政治性の問いとして分析される。またさらに、「人間が政治的動物である」という伝統的な定式にしたがうならば、獣を政治的主権性へと従属させる政治的な過程はいかにして組織されるのだろうか。また、獣と主権者は法や権利の空間に対して外在的かつ例外的な場を占めるがゆえに、法の起源と根源となりえるのだが、だとすると、両者の類比関係はいかなる過剰さを指し示しているのだろうか。本演習では、獣と主権者の古典的な対立を脱構築的に読み替えることで、政治的な主権の伝統的な規定を問い直すデリダ晩年のセミネール(第3章)を読み進める。
〈使用テクスト〉
Jacques Derrida, Séminaire La bête et le souverain Volume I (2001-2002), Galilée, 2008.
(英訳)The Beast and the Sovereign, Volume I, University Of Chicago Press, 2009.
(後期)カトリーヌ・マラブー『真ん中の部屋』を読む(水4限・大学院演習)

カトリーヌ・マラブーCatherine Malabouは、デリダの脱構築思想をもとにヘーゲルやハイデガー研究を展開しているフランスの哲学者である。マラブーは「形を贈与すること―形を受け取ること」という「可塑性」概念に着目し、哲学のみならず、脳科学の分野でも考察を進めている。今回は論集『真ん中の部屋――ヘーゲルから脳科学へ』(La chambre du milieu: De Hegel aux neurosciences, Hermann, 2009)に収録されたデリダ論やヘーゲル論を読む。
2013年度
(前期)カタストロフィの思想(水曜5限・フランス語圏文化論A)
2012年度演習の続き
(前期)「人間・文化・社会」(月曜4限)
総合テーマ「悪」
「善」はむしろ単純に表現されうるけれども、なぜ「悪」はかくも多種多様な経験によって表現されるのだろうか。暴力、殺害、盗み、強奪、虚偽といった人間が犯す罪や過誤。火災、浸水、地震、嵐といった自然現象。悪運や悪縁といった、私たちの世界構造の一部をなす形而上学的な悪。悪はいかに発生し、経過し、終結するのか。必要悪、つまり、正当化されるべき悪、赦されるべき悪、忘却されるべき悪とは何か。悪の意志、行為、現象、構造など、いかなる視点で悪は表現されうるのか。悪をいかに予防し、回避し、根絶するべきか。悪とは人間理性の欠如なのか、過剰なのか。往々にして悪とは善の反対物であり、善が善であるために悪が必要とされる。悪への問いはその対立項である善への問いをも含む。善と悪の中間地帯に黙って留まっていさえすれば、私たちは穏当な仕方で潔癖無実なのだろうか。なぜ私たちはしばしば、善ではなく悪の方に魅了されるのだろうか。悪と善の鏡像的関係を問うことは、私たちの世界や社会の限界に触れ、これを思考することである。「悪」のさまざまな問題系をめぐって、人文社会系の各分野の教員が順番に、オムニバス形式で講義をおこなう。
第1回 ガイダンス(西山雄二・フランス語圏文化論)
第2回「クスリの話――麻薬から「悪」について考える」(綾部真雄・社会人類学)
第3回「社会福祉学は「悪」とどう向き合っているか」(岡部卓・社会福祉学)
第4回「悪をめぐる対話」(宮台真司・社会学)
第5回「悪質な記憶――子どもがキレルとき」(浜谷直人・教育学)
第6回「日本中世の「悪」――「悪」をつけて呼ばれた人々」(鎌倉佐保・歴史・考古学)
第7回 中間のまとめ
第8回「「偽善」と「露悪」の百年戦争」(大杉重男・日本文化論)
第9回「「悪」の図像学――見えないものの描き方」(佐々木睦・中国文化論)
第10回「「悪い」のは誰か?『ニーベルンゲンの歌』の悪を巡る論争」」(山本潤・ドイツ語圏文化論)
第11回「シェイクスピア作品における悪の観念」(越朋彦・英語圏文化論)
第12回「善悪の縁」(石川求・哲学)
第13回「心理療法と悪の問題について」(永井撤・心理学)
第14回「罪と悪―近世キリスト教の場合」(石川知広・フランス語圏文化論)
第15回 まとめ
(前期)「岩波ジュニア新書を読む」(月曜5限・基礎ゼミナール)
若者の健全な市民的教養の育成のために創刊された岩波ジュニア新書は、その確かな内容に定評があります。その対象ジャンルは文系理系を問わず、学問的なものからジャーナリスティックなものまで多岐に及び、第一線の学者や作家が筆をとっています。本ゼミナールでは、各人が自分の関心に即して、岩波ジュニア新書を一冊とり上げて、発表します。さまざまな主題に触れることで知見を広げ、議論を通じて主体的に思考する能力を養うことで、大学生活への第一歩を固めます。
岩波ジュニア新書を参加者各人の関心に応じて一冊選択(担当教員は人文系専門なので、できれば人文・社会科学系のテクストを希望します)。廉価なので自分の担当テクストは購入することを推奨。
(後期)ミシェル・フーコー『監獄の誕生』を読む(水5限・フランス語圏文化論B)
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ミシェル・フーコー『監獄の誕生』(1975年)は、古典主義時代から19世紀に至る犯罪者処罰の変遷を系譜学的に分析した権力論の名著である。ヨーロッパにおいて、身体刑は精神に対する刑罰へと変容し、新しい権力作用が出現する。知と権力の関係、規律訓練による権力の生産など、フーコーは独自の視点から監獄のみならず、学校、工場、病院などの秩序の構造を暴き出すことで、近代的な権力システムの内実を解明する。
使用文献:フーコー『監獄の誕生 監視と処罰』田村俶訳、新潮社、1977年。
購入するなり、複写するなり、各人で用意しておいてください。
(後期)ジャック・デリダ『獣と主権者』を読む(水4限・大学院演習)
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本演習では、2008年11月に刊行が開始されたデリダのセミネール・シリーズ(約14000頁、全43巻)の第2巻目『獣と主権者』をフランス語原書と英訳を用いて精読する。本書では、主権の概念とその諸形象の政治的かつ存在-神学的な歴史が、人間の固有性に対する動物の規定性という概括的な問いと交差されつつ探究される。動物の問いは、まず、動物的な生はいかにしてさまざまな領域(狩猟、家畜化、飼育、動物園、動物実験など)で扱われるのか、という生き物に関する政治的思考、生物学的なものや動物学的なものをめぐる政治性の問いとして分析される。またさらに、「人間が政治的動物である」という伝統的な定式にしたがうならば、獣を政治的主権性へと従属させる政治的な過程はいかにして組織されるのだろうか。また、獣と主権者は法や権利の空間に対して外在的かつ例外的な場を占めるがゆえに、法の起源と根源となりえるのだが、だとすると、両者の類比関係はいかなる過剰さを指し示しているのだろうか。本演習では、獣と主権者の古典的な対立を脱構築的に読み替えることで、政治的な主権の伝統的な規定を問い直すデリダ晩年のセミネール(第1章)を読み進める。
〈使用テクスト〉
Jacques Derrida, Séminaire La bête et le souverain Volume II (2001-2002), Galilée, 2009.
2014年度
(前期)人間と動物(水曜5限・フランス語圏文化論A)

「人間と動物」「人間対動物」「人間かつ動物」──かくも単純に映るこの対比は、人間が動物の一種であるがゆえに複雑な問いを孕んでいる。人間はいかなる類の動物なのか、動物一般とはいかなる点で区別されるのか。動物には理性がなく、本能しかない。魂がなく、精神がない。言語を使用せず、状況に反応するだけだ。死の観念がないので、宗教をもたない……等々。動物は人間の否定形によって規定され、人間中心主義的な遠近法によって表現されてきた。また同じ論理にしたがって、人間は同じ人間を動物として扱い、人間的秩序から追放しもしてきた。特定の人間が理性を欠いたとみなされ、動物以下の有害な「獣(けだもの)」と呼称され、容赦なき迫害に遭うことがあるのだ。
人間は動物の一種であるが、同時に、人間は動物から人間自身を区別する。人間は動物とは一線を画すけれども、同時に、特定の人間を動物並みに、さらには動物以下に扱い卑下する。人間と動物の境界線は極めて曖昧で恣意的なままにとどまり、むしろこの厚みのある境界線によってこそ、私たち人間は動物を表現し、想像し、解釈し、規定してきたと言える。本演習では、時代と場所の異なる多種多様なテクストを読解しながら、動物と人間の表象や思想、倫理から見えてくる風景を旅することにする。
本演習を受講するあなたは、哲学、倫理学、文学、歴史学、民俗学、政治学、宗教学、芸術、動物行動学、生物学などの多様なテクストの読解を通じて、主にヨーロッパと日本における動物論を渉猟することになる。人間と動物の境界線を辿ることで、その境界線の手前で生きもの一般の条件を問い、「動物とは何か」「人間とは何か」という問いの輪郭を自分なりの仕方で得ることがあなたには期待される。
前期は「動物の文化的表象」、後期は「動物の倫理的思想」という大主題をもとに多数の小主題に即して、動物と人間の関係を文化的・思想的・倫理的な角度から順次討議する。
動物の文化的表象
5/7 初回ガイダンス
5/14 院生の研究発表:動物と人間の歴史
5/21 熊の形象:川上弘美『神様』『神様 2011』
5/28 アメリカ出張のため休講
6/4 矢野智司『動物絵本をめぐる冒険』1・2・3章
6/11 矢野智司『動物絵本をめぐる冒険』4・5・6章
動物の擬人化=擬人化した動物などを主人公に、教訓や風刺を織りこんだ寓話とはいかなる類の表現方法なのだろうか。
6/18 池上俊一『動物裁判』講談社現代新書
人間世界に災厄を及ぼすとされた動物たちはいかに善悪の境界、有害と無害の境界に立たされるのか。
6/25 瀬戸口明久『害虫の誕生――虫から見た日本史』ちくま新書
7/2 ハイデガー『形而上学の根本諸概念』創文社
「石には世界はない」「動物は世界貧乏的である」「人間は世界形成的である」という命題をめぐって、動物の哲学的考察が展開される。
7/9 ジル・ドゥルーズ『本能と制度』序
7/16 日高敏隆『人間はどういう動物か』ちくま学芸文庫
7/30 高鳥直士さん(生命科学専攻・助教)によるセミナー「人間と動物」
参考書
金森修『動物に魂はあるのか──生命を見つめる哲学』中公新書、2012 年。
エリザベート・ド・フォントネー『動物たちの沈黙──“動物性”をめぐる哲学試論』彩流社、2008 年。
(前期)「人間・文化・社会」(月曜4限)
総合テーマ「人間と動物」
「人間とは何か?」という問いに対して、これまでしばしば動物との差異が援用されてきた。「人間は政治的動物である」「人間は理性をもつ」「人間は言語を用いるが、動物は単なるシグナルを発するだけ」「人間だけが道具を製作し、使用する」「人間は社会を構築するが、動物は本能的に群れているだけ」「人間だけが道徳を洗練させる」「人間は死を経験し概念化するが、動物は息絶えるだけ」等々。人間はどの程度まで動物なのか、あるいは、いかなる点で人間は動物とは決定的に異なるのか。こうした問いによって自然と文化の境界が浮き彫りになり、また逆にその謎が深まるだろう。「人間と動物」という主題は、私たちの知の全領域──学生のみなさんが大学で学ぶ専門領域全般──を貫く重要な主題である。「人間と動物」をめぐるさまざまな問題系をめぐって、人文社会系の各分野の教員が順番にオムニバス形式で講義をおこなう。
第1回 ガイダンス
第2回「人間=死すべき運命を知ってしまった動物?──存在脅威管理理論とその実証」沼崎誠(心理学)
第3回「ヒトは名前をどう理解しているか」松阪陽一(哲学)
第4回「ヒト、動物、機械──想像力のdemiurgicな伝統」吉田朋正(英語圏文化論)
第5回「動物の象徴性―ヨーロッパ古代・中世文学を題材に」山本潤(ドイツ語圏文化論)
第6回「人になった動物/動物になった人──変身譚の源流」平井博(中国文化論)
第7回「日本古代文学と動物──関係はつくりえたのか?」猪俣ときわ(日本文化論)
第8回 中間まとめ
第9回「古代人の言語と動物たちの鳴き声」浅川哲也(日本語教育学)
第10回「西欧中世の動物観――中世人は動物とどう付き合ったか」河原温(歴史・考古学)
第11回「めだかの学校、人間の学校」西島央(教育学)
第12回「動物を使って人間を表象すること」小田亮(社会人類学)
第13回「動物と人の違いをめぐるドイツ哲学的人間学の思考伝統――社会システム論のルーツにはネオテニー概念がある」宮台眞司(社会学)
第14回「人間としての健康で文化的な生活と社会福祉」矢嶋里絵(社会福祉学)
第15回 まとめ
(前期)ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』読解(水4限・フランス語圏文学演習)

1960 年代、ジャック・デリダは、西洋の歴史のなかで構築されてきた現前の形而上学、ロゴス中心主義、自民族中心主義を根底的に読みかえる「脱構築」を提唱した。「脱構築」の論理や戦略は哲学のみならず、文学、精神分析、政治思想、建築、ジェンダー論などの分野にまで広まりました。デリダが2004 年に他界してから10 年、本演習では主著『グラマトロジーについて』の第一部を精読することで脱構築思想の理解を深めます。
第1 回 ガイダンス(担当教員・西山は4月中はフランス・リヨンにて招聘研究をしています。したがって、本演習の初回は5 月のゴールデンウィークが明けて5 月7 日からになります。)
第2-4 回 第1 章「書物の終焉とエクリチュールの開始」
第5-10回 第2 章「言語学とグラマトロジー」
第11-14回 第3 章「実証科学としてのグラマトロジー」
第15回 まとめ
ジャック・デリダ『根源の彼方に グラマトロジーについて』(上巻)、足立和浩訳、現代思潮社、1972 年。
De la grammatologie, Minuit, 1967; Of Grammatology, trans. Gayatri Chakravorty Spivak, Johns Hopkins Univ Press, 1976.
(後期)人間と動物(水曜5限・フランス語圏文化論B)
前期は「動物の文化的表象」、後期は「動物の倫理的思想」という大主題をもとに多数の小主題に即して、動物と人間の関係を文化的・思想的・倫理的な角度から順次討議する。
動物の倫理的思想
10/8 初回ガイダンス
10/15 院生の研究発表
10/22 J.M. クッツェー『動物のいのち』「哲学者と動物」
10/29 J.M. クッツェー『動物のいのち』「詩人と動物」
11/5 学祭のため休講
11/12 肉食の思想:鯖田豊之『肉食の思想――ヨーロッパ精神の再発見』I-IV章
11/19 中村生雄『日本人の宗教と動物観――殺生と肉食』8-65頁、144-192頁
11/26 菜食主義の論理:宮沢賢治「ビジテリアン大祭」
12/3 ダリン・テネフ氏(ブルガリア・ソフィア大学)セミナー
「猫、眼差し、そして死」("The Cat, the Look, and Death")
12/10 講師海外出張のため休講
12/17 バーバラ・J. キング『死を悼む動物たち』草思社
1/7 高鳥直士さん(生命科学専攻・助教)の実験室訪問
1/14 ダナ・ハラウェイ『犬と人が出会うとき 異種協働のポリティクス』
1/21 まとめ
参考書
伊勢田哲治『動物からの倫理学入門』名古屋大学出版会、2008 年。
エリザベート・ド・フォントネー『動物たちの沈黙──“動物性”をめぐる哲学試論』彩流社、2008 年。
2015年度
前期・演習「死」

あらゆる生き物はかならず死を迎える。逆に言えば、いつ到来するかわからない、ほかの誰とも交換できない死によって、つねに生は限定されている。生物学的に言えば、生命活動が停止した状態が死であるが、私たち人間にとって、死の意味はそれだけにとどまらない。死の定義は地域、文化、時代によって異なり、死を想像し解釈することは人間の文化の中核を占めている。一方で死は恐怖と不安をともなう、容易には受け入れがたい悲劇的な出来事だが、他方で、死は新たな旅立ちや再生、救済や解放として肯定的にも表象されてきた。宗教的発想によれば、肉体が滅びた後も魂が生き延びる死後の世界がある。文学・芸術の表現において、登場人物の死や死の風景などは不可欠な要素である。有限な存在が死をいかに自覚するか、死にはいかなる意味があるのかという問いからは哲学的な思索が始まるだろう。
授業計画・内容
演習では死に関する思想、表象、倫理、科学、宗教について順次、テクストの抜粋を読んでいく。その上で、殺害や自殺といった人間的問い、安楽死や尊厳死といった「死ぬ権利」、死刑という社会制度、大災害・大事故による大量死の衝撃、近親者の死別の悲嘆、生物学的な死の分析、死と共同性の相関関係、といった主題群が取り上げられる。
4/8 初回ガイダンス
4/15 全体討論
4/22 フロイト「快感原則の彼岸」
人間の心は「性欲動(リビドー)」に突き動かされており、「快感原則」と「現実原則」のバランスの上で自らを保持しようとする。現実原則は、快を目がける快感原則に歯止めを掛け、満足を延期し、不快に耐えることを強いる。だが災害神経症(≒トラウマ)のように、快をもたらす可能性のない過去の経験が呼び起こされ、あえて不安を形作ることで刺激を克服することもある(「反復強迫」)。その原形は子供の頃の「いないいない、ばー」だろう。快感原則よりも根源的なこの反復強迫とは? 快感原則は「生の欲動(エロス)」ではなく、「死の欲動(タナトス)」のもとにあるのではないだろうか。「あらゆる生命の目標は死であり、無生命が生命あるものより先に存在していたのだ。」
5/6 内堀基光・山下晋司『死の人類学』(講談社学術文庫)1-3および6章
死や死者に対するとき、人間は居心地の悪さを感じるが、超越的なものとの関係をさまざまに想像し始める。死は透けて見える真理ではなく、不透明な宿命である。この不透明さを想像する点に人間文化の発端があり、つまり、人間文化と死は切り離せない。人類学は個別の文化事象に即して、死によって人間以前から人間的状態へと移行する様子を見定める。ボルネオ島のイバン族の文化を例にして、生者との別離、喪失の儀礼、死霊の世界、再生産としての死について考察する。
5/13 フィリップ・アリエス『死と歴史』(みすず書房)1-90頁
ヨーロッパの中世から現代まで、死の迎え方、葬礼、遺言、死後のイメージ、追慕などの起源や変遷が考察される。〈死〉は五つの類型に整理される。まず、静かな諦観とともに共同体の一員として死んで行く「飼いならされた死」。ついで12世紀に始まる、現世へ執着し自分個人が不幸にも死ぬと感じる「己れの死」。ついで、常に死を身近なものと考えるルネサンス期から18世紀にかけての「遠くて近い死」。19世紀は家族や恋人の死が強い感情を喚び起こすロマン主義的な「汝の死」の世紀である。そして現代において、医療技術と衛生観念の進歩のもとで死は隠蔽され、瀕死者はもはや死の主体ではない(「倒立した死」)。
5/20 カミュ『シジフォスの神話』「不条理な論証」
「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることである。」人生に意義がないという判断はひとに死を命じるのだろうか。自殺は不条理の解決になりうるのか。不条理を認識し前提としつつ、カミュはこの不条理の極限まで論証を試みる。
6/3 映画「おくりびと」
遺体を棺に納める納棺師となった男が、多くの別れと対峙する、本木雅弘主演の人間ドラマ。一見地味だが、人生の最期に必要な職業を通して、家族や夫婦愛のすばらしさを描く。授業では、現代社会における死のタブー、宗教による儀礼的コミュニケーション、生死による絆の回復、故郷の意味などをとりあげる。
6/10 「ゾンビ」という形象
当初、ホラー映画は吸血鬼ドラキュラ、フランケンシュタイン、狼男を御三家とする怪物ものが主流だった。1968年、ジョージ・A・ロメロ『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』によって、ホラー映画の変革が起こる。生きた屍体=ゾンビである。ロメロはブードゥー教のゾンビに着想を得て、吸血鬼の特徴を混ぜ込み、現在風のゾンビの形象(動きが遅い、理性がない、感染する、腐っていく)をつくりあげた。ゾンビとは生と死が宙づりになった優れた形象で、実は、現代社会を生きる私たち自身の不気味な鏡像でもある。20世紀末からTVゲームやコミックを通じて、ゾンビの刷新的リバイバルが起こり、現在膨大な作品がつくられている。
6/17 柳田國男『先祖の話』(角川ソフィア文庫)
柳田國男は本書を昭和20年4-5月に執筆した。3月10日の東京大空襲によって一夜で10万人が亡くなり、大日本帝国の敗戦が濃厚だった戦争末期。膨大な数の死者(日本人310万人、そのうち軍属は230万人)を無縁仏にすることなく、いかにして先祖として祀るのか。死者を迎え入れる「家」も焼き払われ、焦土と化した日本で、誰がどこで死者を先祖として迎え入れるのか。靖国神社や護国神社へ英霊として祀ること(近代国家による死者の管理)で十分なのか、「家」が先祖を祀る伝統との齟齬はないのか。国家、社会、家族、個による先祖の祀り方を民俗学研究の知見から論じる。
6/24 モーリス・パンゲ『自死の日本史』(講談社学術文庫)
日本精神の光輝と陰影を描き出し、日本人の「運命への愛」を讃えるフランス最高の知性が透徹した眼差しで、日本二千年の歴史伝統に迫る。意志的に選び取られた死=自死。記紀と『万葉集』にある古代人の殉死に始まるこの風土の自死史。道真の怨霊、切腹の誕生、仏教と自死の関係を問う。『葉隠』『忠臣蔵』に表出する武士道精神と近松、西鶴が描く心中とは何か? そして近代日本が辿った運命を、芥川、太宰、三島らの作品に探る。自殺大国の謎を西欧知性が論理と慈愛で描く「画期的日本文化論」。
7/1 ジャック・アタリ『カリバニズムの秩序』(みすず書房)1-87頁
カニバリスム(食人、食人俗、人肉嗜食)は、未開社会の人喰いを指す言葉で、カリブ海のカリブ族の風習に由来している。悪と病いと死を祓い、治癒を願う儀礼であり、コロンブスがヨーロッパ世界に伝えたといわれ、野蛮の同義語とされてきた。しかしながら、キリスト教世界にみるパンとブドー酒による聖餐は、同じカニバリスムの隠喩といえるのではないか。「イエス言ひ給ふ『まことに誠に汝らに告ぐ、人の子の肉を食はず、その血を飲まずば、汝らに生命なし。わが肉をくらひ、我が血をのむ者は、永遠の生命をもつ、われ終の日にこれを甦へらすべし』(ヨハネ伝6:53-54)。かつては死者=他者を喰い、生を回復したという人類。そして現代の臓器パンク、試験管ベイビー、プロテーズ(補綴)など、いずれもカニバリスムの進化の極点ではないか。ここでは生と死とは、身体の消費過程とされてしまった。隠喩はもはや隠喩ではない。ロボット的生か、人間的死か? 新たな野蛮と新たなカニパリスムの告知であろう。
7/8 国際セミナー「動物たちは死ぬのだろうか。動物、死、私たち(Les animaux meurent-ils ? L'animal, la mort et nous)」パトリック・ロレッドPatrick Llored講師(フランス、リヨン大学)
7/15 復活の思想──イエス・キリストの事例
7/22 まとめ
後期・演習「死」
10/7 初回ガイダンス
10/14 講師フランス出張のため休講
10/21【演劇】ソフォクレス『アンティゴネー』
古代ギリシアの三大悲劇詩人ソポクレスの『アンティゴネー』は、『オイディプス』とならんでギリシア悲劇を代表するのみならず、ヨーロッパ演劇史・思想史上きわめて重要な位置を占める作品。この戯曲では、男と女、老年と青年、法と正義、公と個人、国家と家族、生者と死者といった根源的な価値基準をめぐって、アンティゴネーとクレオン(テーバイの王)という二人の主要人物がそれぞれの主張・世界観を担って対決する。祖国に攻め寄せて倒れた兄の埋葬を、叔父王の命に背き独り行うアンティゴネー。(クレオン)「敵というものは、死んだあとでも友とはならないのだ」/(アンティゴネー)「私は憎しみを共にするのではなく、愛を共にするよう生まれついているのです」。王女アンティゴネーは亡国の叛逆者か、気高き愛の具現者か。悲劇の終幕は人間の運命と葛藤の彼岸を目指す。
10/28 連続国際セミナー「死と文学」① (フランス語、通訳有)
「演劇における死――死骸と幽霊」
講演者=ブリジット・プロスト Brigitte Prost(レンヌ第2大学)
コメント=高橋博美(レンヌ第2大学)、榎本恵子(首都大非常勤)
11/11 連続国際セミナー「死と文学」② (英語・日本語)
「魯迅の散文詩「死後」について」
講演者=デンニッツァ・ガブラコヴァ Dennitza Gabrakova(香港城市大学)
コメント=大杉重男(日本文学)、荒木典子(中国文学)
11/25 【生物学】柳澤桂子『われわれはなぜ死ぬのか―死の生命科学』(ちくま文庫)
私たちは、生れ、成長したあと、老いて死んでゆくものだと思っている。けれどDNAは受精の瞬間から、死に向けて時を刻み始めている。産声を上げる10ヶ月も前から、私たちは死に始めているのだ。生命が36億年の時をへて築きあげたこの巧妙な死の機構とはどのようなものなのだろうか。私たちの生命にとって老化と死は、逃れられない運命なのだろうか。なぜ生物には死がプログラムされるようになったのだろうか。これまでだれも語ることのなかった死の進化をたどり、われわれはなぜ死ぬのかを考える。クローン羊、脳死法案など死と生命の倫理が問われる現在、生命科学者柳澤桂子が死の本質に迫る画期的な書。
12/2 【社会学】澤井敦『死と死別の社会学』
死が医療などの専門職に管理され、日常生活から隠蔽・排除される「死のタブー化」が進行している。他方で、それに対立する考え方も台頭した。他者の死や死別を共有する伝統的な共同性を回顧する志向、そして「自分らしい死」という理念=死の自己決定を重視する志向である。一見すると相容れない死をめぐるこれらの志向は、しかし相補的な図式を形成してある種の死の共同性を生起させている。そのとき、共同性=規範として選択された「良き死」が同化と排除の構造を駆動することを、本書は、ウェーバーやデュルケム、パーソンズ、エリアス、ギデンズ、バウマンなどの社会理論から明らかにする。現代社会における死と死別の意味を再考し、死のコード化によって他者を否定しない生の関係性のありようを模索する。
12/9 【美術】ジュリア・クリステヴァ『斬首の光景』(みすず書房)
ブルガリアの思想家クリステヴァがルーブル美術館の全面的な協力のもと、あらゆるイメージの根源に、「斬首」のヴィジョン(首の光景=決定的な場面)を探求した待望の美術・哲学論。クリステヴァは、デッサン(素描)という行為に、自らの母親の記憶から人類の黎明期につながる人間の普遍的な営みを見出す。それは、あらゆる宗教現象の起源となり、切断された頭部のイメージに結晶する。太古の人類における頭蓋骨崇拝から、古代神話のゴルゴン、そして聖ヨハネの首とキリストの顔が変成したビサンチンのイコンへ。さらには「残酷」そのものとして屹立する近代のギロチン、現代のアヴァンギャルド芸術に至るまで、恐怖と魅惑に満ちた120点の図版とともに、精神分析学、文化人類学、ギリシア正教を中心とした宗教学、さらにはフェミニズムに由来する膨大な知識を駆使して「斬首」のヴィジョンが分析される。
12/16 連続国際セミナー「死と文学」③ (英語・日本語)
「あなたは私の死だった」(ツェラン『糸の太陽たち』)─文学における死について
講演者=ダリン・テネフ Darin Tenev(ブルガリア・ソフィア大学)
コメント=山本潤(ドイツ文学)、南谷奉良(一橋大学)
1/6 【社会】川村邦光『弔いの文化史 日本人の鎮魂の形』(中公新書)
日本人は天災や戦争によって非業の死を遂げた者をどのように弔ってきたのか。『古事記』『日本書紀』を起点に仏教説話集『日本霊異記』の世界に分け入り、念仏結社を作った源信、女人救済を説いた蓮如らによる弔いの作法を歴史的に辿る。さらに死者の霊を呼び寄せる巫女の口寄せ、ムカサリ絵馬や花嫁・花婿人形の奉納など現在も続く風習を紹介し、遺影のあり方をも考察。古代から東日本大震災後まで連なる鎮魂の形を探る。
1/13 【歴史】藤原彰『餓死(うえじに)した英霊たち』(青木書店)
アジア太平洋戦争において、日本人の戦没者数は310万人、その中で、軍人軍属の戦没数は230万人とされている。この戦争で特徴的なことは、日本軍の戦没者の6割以上の140万人前後が戦闘行動による戦死ではなく、餓死もしくは飢餓による病死だったことだ。食糧補給を無視した無謀な戦争拡大で、飢餓地獄の中で野垂れ死にした実態──ガダルカナル島の戦いは、戦没者118,700人のうち9割が餓死、及び栄養失調・薬品不足のためのマラリアによる病死。 ポートモレスビー攻略戦とニューギニアの第18軍の戦没者127,600人のうち、9割以上、インパール作戦では78%以上が餓死。中部太平洋の孤島で置き去りにされた半数の125,000人が餓死・病死。戦場で最も多い50万人の戦没者を出したフィリピン戦では8割以上の40万人が餓死。中国戦線では455,700人の半数が栄養失調に起因するマラリア、赤痢、脚気による病死。本書は、無理で無茶苦茶な作戦を計画して実行したり、はじめから補給を無視して栄養失調が起こるのに任せた日本軍の責任と特質を明らかにする。
1/20 【社会】高橋哲哉『靖国問題』(ちくま新書)
21世紀の今も、なお「問題」であり続ける「靖国」。「A級戦犯合祀」「政教分離」「首相参拝」などの諸点については、いまも多くの意見が対立し、その議論は、多くの激しい「思い」を引き起こす。だが、その「思い」に共感するだけでは、あるいは「政治的決着」を図るだけでは、なんの解決にもならないだろう。ベストセラーになった本書は、靖国を具体的な歴史の場に置き直しながら、それが「国家」の装置としてどのような機能と役割を担ってきたのかを明らかにし、犀利な哲学的論理で解決の地平を示している。
1/27 まとめ
後期・演習 ジャック・デリダ『嘘の歴史 序説』読解
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デリダが2003年に他界してから10年、本演習では1994-95年に執筆された『嘘の歴史 序説』を精読することで脱構築思想の理解を深めます。「嘘をつくこと」は、内心で他人をだまそうと思って、意図的に間違った言葉を発することです。たとえ間違ったことでも自分の発言が真実だと信じているならば、その言葉は嘘にはならず、たんなる誤謬とされます。「嘘つきは泥棒の始まり」と言われるように、嘘は大きな悪事に通じる最小限の悪であり、やましい行為です。しかし、「嘘も方言」と言われるように、すべてを本音で話していたら、嘘なしには人間関係や社会は成り立ちません。嘘は悪の発端として忌避されると同時に、必要悪として嘘は社会中に偏在します。本演習では、デリダのテクストに即して、嘘の原理、嘘の歴史、嘘の文化、現代の政治的嘘の特質などを考えます。
第1 回 ガイダンス
第2-4 回 デリダ『嘘の歴史 序説』精読
第5回 カント「人間愛から嘘をつく権利と称されるものについて」
第6-8回 デリダ『嘘の歴史 序説』精読
第9回 アレクサンドル・コイレ「嘘に関する考察」
第10-12回 デリダ『嘘の歴史 序説』精読
第13回 ハンナ・アーレント「政治に於ける嘘」
第14-15回 まとめ